“水やり”で育つもの


二日続きの晴天。


「子どもたちはちゃんと水をやっとるやろうか。」
パピヨンビオトープの花や野菜が気になる。


夕方、花壇へいってみると……
植えたばかりのサルビアの葉がしおれていた。


「当番の子が水やりを忘れたかな?」
そう思って、子どもたちが管理しているプランターを見てみると……


「時間がない。
面倒くさい。
でも当番だから水だけはかけとかなきゃ……。」
湿った土と乾いた土のまだら模様から、
そんな子どもたちの気持ちを想像した。


植物への水のやり方は意外と難しい。
大人、子どもを問わず、
ありがちなのは、
土の表面が湿っていても、
根の部分まで水が行き渡っていないという今回のようなケース。
乾燥し過ぎた土の中へはなかなか水が浸透しないのだ。
水をやった土に指を挿してみればすぐにわかる。


水やりの足りなかった花壇で水やりをしていると、
幼稚園児二人がやってきて「また水やりさせて〜」と言う。
先日花壇でハーブを植えてくれた知り合いの娘さんとそのお友達だ。
今日も、兄の野球の練習のために母に連れられ、学校に来ていたらしい。


「じゃあお願いする。水のやりかた覚えとる?」
「ひとつずつ、下の方に、10数えるまでやるっちゃろう。わたしできるよ。い〜ち、に〜い……」


手伝ってくれた子どもたちに、ご褒美として花壇で採れた苺を手渡しながら、
私は、今年2月11日、佐世保市の食育祭で聴いた基調講演の話を思い出していた。


「児童による深刻な犯罪が起きた学校の風景です。
校内に花や植物が全くと言ってよいほど育っていません。
それが共通点です。」


植物、動物を育てるという行為を介して、
子どもたちの心の中に育てられるものはたくさんある。


だから、
休業日の水やりや餌やりが多少面倒でも、
植物や動物を育てている学校がたくさんあるのではないだろうか。
それを諦めた学校が失うものはたいへん大きいと思う。


水をやって育つのは植物だけではない。


そう考えると“水やり”という一見何の変哲もない作業がとても奥深いものとなる。