想定外の学び


約1ヶ月前。
10月30日。
PTA九州ブロック大会分科会で、私は食育活動事例報告者として登壇した。


最初の登壇者として“弁当の日”の背景と効果について20分で紹介し、
その後、2人の司会者と4人の登壇者とで40分間のパネルディスカッション。
目の前には600人の聴衆。


「いろんな家庭事情の子が居るから学校での“弁当の日”の実施は難しいのではないでしょうか?」


以前に書いた記事(http://d.hatena.ne.jp/mich_katz/20100706)を思い出しながら、この質問に対して私はできるだけ丁寧に答えた。


「かわいそうな子をそのままにしておくことは、問題を先延ばしにしているだけではないでしょうか」。


具体例を示したりスライドショーを見せたりしながら解決策を紹介した。


「例えば、先生やPTA会長さんが生徒の分まで弁当を作ってきた例もありました。施設から通う子どもたちのために、早朝、家庭科室を解放して弁当を作らせた学校もありました。そこには、やれない理由でなく、できる方法を考える大人たちがいました」。


会場を包む雰囲気が少し変わった。
私は手応えを感じていた。


しかし、意表をつく質問が飛び出した。


「それを“えこひいき”と言われたらどうするのですか?」


私も含め、登壇者たちが、一瞬、言葉を失った。
私は、教育委員会の方にコメントを求め(ゴメンナサイ)、その間に考えた。そして思い出した。


「大人が助けなければ、子どもどうしで助け合うシーンが弁当の日には必ず見られます。大学生の弁当の日で私が経験した例です。学業が忙しかったり、寝坊したりして、弁当を作ってこれなかった学生が少し遅れてやってきました。『弁当、つくれなかったんです』と申し訳なさそうに言ったのです。すると、その場にいた学生全員が申し合わせていたかの様に、おかずやごはんを少しずつ出し合って、弁当箱のふたの上にもうひとつの弁当をつくったのです。弁当を作ってもらった学生も、作ってあげた学生も、みんな幸せな気持ちでその時間を過したと思います。」


そもそも世の中は不公平。
富める人もいれば、そうでない人もいる。
可愛そうな人もいれば、そうでない人もいる。
病気の人がいれば、そうでない人もいる。
心が豊かな人もいれば、そうでない人もいる。


誰かに何かしてあげることを「えこひいき」と言って止めてしまえば、その不公平は永遠に続く。そこには自分より境遇の良い人を妬み、羨む心しかない。しかし、誰かに何かしてあげることを厭わなければ、そこはいつも人に対する感謝の気持ちが溢れている。それが、本当の意味で平等な世の中ではないだろうか。


幼い時代ほど、人はそういうことを何の疑いもなく感じている。我が子の小学校の弁当の日、クラスのみんなのためにと作ったたくさんの唐揚げをタッパーに詰めてきた男の子に遭遇した時、私はそれを確信した。


大人に必要なのは、幼い時代のあの純粋な優しさを思い出すことなのかもしれない。


この日、想定外の質問を受けて私にはそういう気付きがあった。