“弁当の日”の可能性 _ My Life

様々な家庭環境


“弁当の日の難しさ”で最もよくあげられる理由のひとつである。「誰にとっても負担感のない平等性」を原則としたとき、家庭環境の格差は、弁当の日実施に向けて、する子どもと周囲のさせる大人にとっての大きな不安材料となるかもしれない。


こうした理由があがった時に私がいちばん気になるのは、弁当の材料さえ用意してもらえない不遇な家庭事情に触れないようにそっとしておき、一時的にやる側させる側の双方に無難な状況を確保することによって、ただ、周囲の大人たちが安堵しているだけではないだろうかということである。結果的にそれは、「あんたのことは他の子たちとはいっしょにはできんけん、自分一人でがんばりなさい。」と大人たちがその子どもを突き放してしまっていることになるのかもしれない。


しかし、大切なことは、そうした境遇の子どもが、弁当の日に参加しにくいと感じるかどうかではなく、自分のことを大切に思え、自分の将来に対して前向きな希望や夢を描けているだろうかということを、その子を取り巻く大人たちが真剣に考えることではないだろうか。自分を支えてくれるたくさんの人が居て、たくさんの食材があることを知り、私たちヒトを含めたたくさんの生命との関係性を実感し、将来に対する希望と勇気を抱く。弁当の日とは、そういう取り組みであり、弁当作りの腕前を競うイベントではない。


「がばいばあちゃん」(島田洋七)に次のような一節がある。

二年生の運動会の日、おれのお弁当はごはんと梅干しと紅ショウガだけのお弁当でした。それに、みんなはかあちゃんが応援にきてくれて、応援席で楽しく食べるのに、おれはひとりぼっちでした。広島のかあちゃんは運動会には来れませんでした。おれは淋しくて校庭を離れて、ひとりで教室でお弁当を食べようとしたんですが、そこに『おう、徳永、こんなところにいたのか、先生、探したぞ』と担任の先生が入ってきました。そして先生が『なんかさっきからお腹が痛くてな。お前の弁当には梅干しとか紅ショウガが入っているだろう。よかったら、ぼくのと交換してくれないか』と言うので、おれは『気の毒になあ』と思って、お弁当を交換してあげました。先生のお弁当は卵焼きにウインナーに海老フライなんかがぎっしりと入っていて、おれは『やったー!』と大喜びでした。三年生の運動会の日も、三年生の担任の先生がまたお腹が痛くなって、おれに弁当を交換してほしいと言ってきて、おれは『うちの先生は運動会になるとお腹がいたくなるんだなあ』と思ったんです。四年生の運動会でも、担任の先生は女の先生に代わったんですが、その女の先生もお腹が痛くなって、おれに弁当を交換してほしいと言ってくれたんです。この意味が小学六年生までわからなかったんです。


この時代とは比べものにならないくらい、経済的に豊かで、食べたいものが何でも安く、簡単に手に入る現代。弁当を用意できないような子が一学級に十人も二十人もいるわけではないだろう。上述のような、たったひとりの大人の優しくて勇気ある行動が、一人の子どもの未来に勇気と希望を与えることになるかもしれない。弁当の日にはそういう可能性もあることを忘れてはいけない。


「弁当の日」は、健全な社会性や関係性を育む手立てのうちの単なる一つにすぎない。しかし私は、この手立て以上に実績を生み出している手立てを知らない。他にあったら教えて欲しい。