子育てへのPTAの貢献とは?


「何のためにPTAはあるのか?」


昨年PTA役員になって以来、いつも考えていることであり、未だに自己消化できていない課題だ。


よく考えてみるとPTAほど不思議な組織はない。
全国のすべての小中学校にある。
私が小中学生の頃にPTAはあったのだから、どの学校のPTAも少なくとも数十年の歴史があるはずだ。
それなのに、どのPTAでも、恒常的に役員や委員のなり手がなく、候補者を探すのに大変苦労していると聞く。
誰もが活動のマンネリ化を感じているのだけれど、それをどう打破すべきなのか分からないと言う。
なんとも不思議な団体である。


いったい何のためにPTAはあるのだろう。


「親と先生、各々が互いに協力しあって子どもの育ちを支えるため。」


PTA(Parent-Teacher Association)を言葉どおりに取ればそうかもしれない。


では、互いに協力するとは具体的にどういうことなのか?


運動会のような学校行事を親がお手伝することが協力なのか。逆に、保護者がしたいという行事に先生がお手伝いすることが協力なのか。また、単に手を貸すだけで、子どもの育ちに役立ったと皆実感しているのだろうか。さらにクリエイティブでアクティブな活動にはいったいどんなものがあるのだろうか?


PTAの発祥はアメリカ。そのアメリカではPTAはどんなふうに運営されているのだろう。WikipediaのPTAの解説によればこうだ。

PTA(Parent-Teacher Association)とは、各学校ごとに組織された、保護者と教職員による教育関係団体のことである。各自が任意で入会する団体で、個々の生徒の成長よりも、寄付金を集めたり、教職員を支援することなどで学校全体ひいてはあらゆる子ども達の利益となる活動を目的としている。


なるほど、元来PTAとは、どちらかというと、親が教職員や学校の支援のために協力するというスタンスだったようだ。寄付金集めというのは、さしずめ、日本の廃品回収での資金集めといったところだろうか。

2007年現在、アメリカ国内にある全米PTA団体に属しているPTAは2万3000以上ある。しかし全米の90%以上の学校が何らかの保護者と教師によるグループを持っているにもかかわらず、PTAに正式に属しているのはわずか25%である。残り75%は各自が独立した団体で、PTO、またはHSA、PCCなどと呼ばれる[2]。PTOの割合が高いのは、PTAの方針や運営方法に賛同しない団体が多いほか、私立校には宗教学校が多く、全米PTAよりも母体の宗教団体のガイドラインに沿った活動をするためである。
PTOが学校単位で活動しがちなのに対し、PTAは学校、州、国というヒエラルキーで構成され、すべての子ども達のためという長期的かつ広範囲な目標を持ち、それぞれの単位に合った内容で活動している。たとえば学校単位では、教員や職員をサポート、学校環境の改善、行事などを企画し実行する。州単位では、各学校からの質問に対してアドバイスを与えたり、学区のカリキュラム、州法の改定など州内の子ども達が対象となる事項について話し合いが行われる。国単位では、アメリカの教育政策に対するロビー活動を行っている。


日本と同じ、全国レベルの階層組織の末端として運営されるPTAは全体の1/4しかなく、階層組織に属さず学校単独で運営されるPTO(Parent-Teacher Organization)が多数を占めるらしい。

PTAも各学校の特色やニーズに合ったイベントやプロジェクトを立ち上げるが、PTOの強みは、会費の徴収の有無、活動目的や方針まで全てを決められる自由度の高さである。増加するPTOに対応して1999年に出版・サービス会社PTO Todayが幼稚園から8年生の保護者を対象とした雑誌『PTO Today』が創刊され、8万部発行している。PTO Today社は、独立しているPTOをまとめる事業も行っており、会費を払えばPTO Today Plusのメンバーとなって全米PTAと同じようなサービスを受けることができる。


ほう、単独運営のPTOが、その自由度をうまく利用し、需要に応じた雑誌出版と結びついて組織力を大きくしているというのは、おもしろい。


同じページに日本とアメリカのPTAの違いが次のように書かれている。

PTA、PTOに限らず、教育熱心な親ほど学校に係わる傾向にあり、一般的にレベルが高い公立校ほどPTA (PTO) の活動が盛んである[4]。PTAが楽な学校を選ぶ日本とは対照的である。また日本が「今年はPTA委員に当たった」と大量の仕事が一部の人間に集中するという現象が順繰りに回ってくるのに対し、アメリカでは毎年各家庭がPTAに加入するかどうかを訊ねられ、加入することは「今年も自分ができる範囲でPTA活動をする」という意志の表示となる。仕事を持ちながらシーズンを決めて活動する保護者も多く、教育法、会計、美術指導、図書整理や読書指導、作文添削、スポーツ・コーチ、学校周囲の交通整理、広報活動、緊急災害準備、寄付金集め、子どものクラス役員、親睦会、講演会、教職員への感謝週間など自分の専門や趣味を行かせる分野で活動する。私立校の場合は入学と同時にPTAに自動的に入会したり、ボランティア活動と現金寄付のどちらかを選択する学校もある。


ほうほう。アメリカでは、自分が協力できる活動の種類を選べて、自由度がかなり高いらしい。活動で協力できない場合にお金で協力という選択肢があるのも面白い。

アメリカと日本のPTAの最も大きな違いは、アメリカのPTAが必要とされて自発的に作り上げられたものであるのに対し[1]、日本のPTAは第二次世界大戦後に、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の提案で半強制的に導入された点である[5]。そのため、日本ではPTA活動を自由意志ではなく、義務や強制で奉仕活動をさせられているという意識が強い[6]。PTA役員が立候補で決まることは珍しく、専業主婦、姑と同居、一人っ子といった条件面だけを見て指名されてしまうこともある。
またPTAは任意で参加する団体であるはずだが、入会申込書もなくいきなり会費を徴収するケース、会費を一律ではなく寄付金のように口単位で徴収するケースもある。保護者を会員とするという規約を定めて、強制的に会費を口座振替させている事例がある。何としてでもPTAを避けてボランティア活動を全くやらない保護者がいる一方、あまりにも熱心すぎて周りまで巻き込んでしまう保護者もいる。
近年の傾向としては、共働きやシングルマザーが増えPTA活動ができる母親が減っている一方、父親の参加が以前より増えている。しかし余裕を持って活動できる保護者が年々減っており、また学校と対等ではなく教職員の職務を押し付けられて決定権を持たないPTAの現状を鑑み、PTAが本当に必要かどうかという議論が多くの地域で起こっている。


日本のPTAが奉仕活動的性格が強いという実感は私にもある。つまり、PTAが特定の誰かの自己犠牲で成り立っている感が強いということだ。会費にしても、有無を言わせず自動的に会員になる決まりを作って集めているのに、誰も文句を言わない(言えない雰囲気があるのかもしれない)。これには、古くから農村の維持に役立ってきた“でかた”や“村八分”に見られるような、誰かと極端に異なることを受け入れ難い思想が根強くあり、その歴史故に、自由意志のもとに行われる真のボランティア活動がなかなか定着しない、日本固有の社会背景が関係していそうだ。


「自分の子ではなく、よそ様の子も含めて、自分の身近に居る子どもたちに、私という個人は、どんな貢献が具体的にできるのか?」


上記の説明を読みながら、そんな“一個人の主体性”が、PTAの存在意義を高める原点のような気がしてきた。そして、そんな考えにたどり着いた時、ふとあることを思う。


現代の悩める家庭と社会に対し、様々な想いを込めて「弁当の日」を実践された竹下先生は、PTAをどんなふうに捉えておられるのか?PTA活動にどんなことを期待されておられるのだろう?それを是非聞いてみたい。


「子どもの育ちにPTAはどこまで貢献できるのか? 〜 「弁当の日」から見えたこと」


香川県綾川町立綾上中学校校長 竹下和男


10月18日(土)、河東西小学校でその話しが聞けます。(詳細は後日掲載)