農学者の使命


「エヴィデンスを挙げることが期待できなければ関われない。」


昨日の吉田さんの指摘は、食や環境の問題への取り組みに対し、科学者が介入を躊躇するときの心中を見事に突いている。


これは科学者の通常の生活が科学論文を作成することに重きを置いていることと関連しているだろう。大学では、いかにたくさんの論文を書いたかとか、いかに良い論文を書いたかを、長い間、科学者としての優劣の主たる指標としてきた。


それがあまりにも当たり前なので、論文になりにくいことは後回しにされがちだ。論文になりにくいというのは、目前の現象を引き起こすエヴィデンスが見つけにくいということ。系を単純化することが困難な農業や環境問題は特にそうだ。だから農学者は、昨日、吉田さんが指摘したような農業現場の課題に挑むことや協力することを避けたいという気持ちが強い。


しかし、現場の問題は、そんな科学者の事情とは無関係に進行して行く。放置すれば問題が深刻化し、取り返しがつかなくなったりする。その問題が将来ずっと続くことになるかもしれない。そんな時、エヴィデンスを挙げられるかどうかに関わらず、その目前の重要な問題を解消してくれる人が必要になる.さらに,それを支える基礎的な技術や証拠を提示してくれる人も必要になる。医の分野で言うなら、腕の良い臨床医と基礎的技術・データを提供する研究者とが協力して今取れるべき最善の策で対処するということになるのだろう。吉田さんは、そんなことを訴えているのだと私は思っている。


残念なことに、我が国の農学分野では、相当数の農学者が、何十年にもわたり、たくさんの研究成果を挙げ、たくさんの論文を公表してきたにも関わらず、日本の農林水産業は衰退の一途をたどってきた。


私たち農学者は何のために研究するのか?
農学は何のためにあるのか?
論文を書くためか?


最近、いつもそう自分に問い質している。