“坂の上の弁当”を目指して 〜 “弁当の日”は誰のために


“弁当の日”の実現を夢見るあるお母さんからメールです。

弁当の日ってとっても素敵な取組みなのに、いざやろうと思うと親御さんに説明するのって大変なのですね。月曜日に参観日&学級懇談会がありました。担任の先生は内田先生の講演会にも来て下さって“弁当の日”に共感してくださり・・・懇談会で取り上げてくださったのですが、賛同を得ようと思うと想定していた以上に反対意見があり難しい(TT)と感じた次第です。


“弁当の日”の意義を説明すればするほど、できない理由がたくさんあがってきます。


「複雑な家庭事情のため弁当をつくれない可哀想な子がいるから」。


これが弁当の日をやらない理由のトップ。他にも、給食が止められない。子どもが一人でできるわけない。ケガや火傷をしたらどうする。ガスが止められている家庭がある。まな板と包丁がない家庭がある。養護施設から通っている子どもたちがいる。……etc.できない理由をあげだすときりがありません。メールをくださった方が参加した学級懇談会ではおそらくそんな状態だったのではないかと想像します。


でも、その可哀想な子やできない子をそのままにしておけば、彼らは可哀想な状態のまま、できないまま、大人になるしかないのです。それでいいのでしょうか?それが私たち大人のやることでしょうか?


少し前のことですが、西日本新聞社の佐藤弘さんの仲介で、JA越智今治の組合紙の連載「天気と食は西から変わる」に最終ランナーとして記事を執筆しました。ちょうどNHKのスペシャルドラマ『坂の上の雲司馬遼太郎原作)第1部』が放送された直後でしたので、それにあやかり「“坂の上の弁当”を目指して」と題する記事を寄稿させて頂きました。http://www.islands.ne.jp/ochiima/tenkitoshoku/vol12.pdf


その頃の私は、地元で“弁当の日”をようやく立ち上げたものの、軌道に乗せていくことの難しさにぶち当たり、悶々とする日々を送っていました。U校長とその生徒、Mさんとその子どもたちの生き方は、そんな私に「誰のための“弁当の日”なのか」という内なるメッセージを投げかけ、「やればできる!」と私を奮い立たせてくれました。少しでも同じような悩みを持つ弁当の日応援団の皆様の力になればと思い、改めてここに掲載します。

“坂の上の弁当”を目指して
                       九州大学大学院農学研究院
                       助教 比良松 道一

★1人だけの“ラーメン弁当”
 鹿児島空港から飛行機で南に1時間。昨年12月、“弁当の日”の講演で、闘牛が名物の徳之島に呼ばれた私は、島内で最初に“弁当の日”に取り組んだU校長に、こんな話を聞いた。
 弁当が作れそうにない生徒がいた。いろんな理由があって、故郷を離れ、この島で暮らしている。学校も休みがちな子だった。1回目の“弁当の日”が間近に迫ったとき、校長は生徒にこんなメールを送った。
 「今度の火曜日は、うちの学校での初めての弁当の日。“ 弁当の日”でもっとも大切なことは中身ではない。自分で作ること。できれば君にも弁当を自分で作ってほしい」
 当日、メールでラーメンの写真が届いた。カップラーメンでなく、棒ラーメン。自分でラーメンを茹で、ネギとチャーシューを切り、メンマも添えてラーメンどんぶりに奇麗に盛りつけていた。床の上に置き、真上から取った写真は、湯気でレンズが曇ったせいか、ソフトフォーカスがかかったようにぼんやりとにじんでいた。
 この子には食事を作らないという選択もあった。いつもと変わりのない暮らしでもよかった。でも、この子は作ることを選んだ。そして写真を撮り、校長に送った。
 何が、この子を動かしたのか。その写真を見て発せられる、校長の言葉を心のどこかで期待していたのか。
 校長は生徒にメッセージを送った。「おいしそうに出来たね。君の“今出来る弁当つくり”に感激している。自分で作る。今あるもので出来る弁当を作る。評価はしない。これらすべてを満たしている。これでうちの学校全員が参加し、できたことが重要だと思う。これからも、自分で考え、自分で挑戦し、自分の失敗を乗り越える学習を続けよう」
2回目の“弁当の日”には「徳之島」というテーマが付いた。それを聞いて「牛肉を使った料理」とその子は答えた。

★可愛い左腕の中のお弁当
 その2ヶ月前。愛媛県今治市で “どうなるどうする日本の食シンポジウムin今治〜ひろがれ弁当の日” が開催された。会場となった今治市公会堂に、岐阜、島根、大分からも含め、県内外から754人もの人々が集った。「わしゃパンやが」の関剛校長率いる地元桜井小学校の児童・教師らの報告や、竹下和男校長以下、“ 弁当の日”応援団員の話でシンポジウムは大いに盛り上がったが、人口17万人の地方都市で、このシンポが実現させたのは、JA越智今治で働くMさんの熱い想いだった。
 高校を出てすぐに働き始めたMさんは、食事は実家の母に任せっぱなし。子どもの食事も、長女が5年生になるまで母に頼った。そんなMさんが、我が身を振り返るきっかけになったのが、JAが企画した講演会で聴いた講師の言葉だった。「食べ物のあり余っている時代に食べ物のありがたさを教える。これほど難しいことはない。でも、希望がある。それが“弁当の日”だ」。講師の話に衝撃を受けたMさんは友人を誘い、08年10月、福岡市で開かれた“弁当の日”シンポジウムに参加。応援団員たちの本気に触れて感涙し、心に誓った。「“弁当の日”を今治にも」
 Mさんはまず、我が家から“弁当の日”を始めるべく、娘と一緒に台所に立ちはじめた。小学4年生になる次女は、左腕の手首から先を持たずに生まれてきた。Mさんはその次女に、手順と味付けについてだけ口を出し、自らの手は一切出さずに調理をさせた。10年間付き合ってきた次女の可愛い左腕は、Mさんから日替わりで出される課題をひるむことなく見事にこなしていった。その様子を見てMさんは「きっと料理は大丈夫」と安心した。
 記念に撮った写真には、ご飯とおかずの入った弁当箱を、赤ちゃんのようにしっかりと抱っこして持つ次女の誇らしげな姿があった。母のために人生で初めて作った弁当だった。
 「いつも心のどこかで『ゴメンネ』って思いながら子育てをしてきました。シンポにしても、地方JAのただの一職員が、ここまでできるとは思いませんでした。けれども“弁当の日”と出会い、子どもも私自身も幸せになれる術を知りました。“弁当の日”にありがとうと言いたい」。懇親会の場で涙ながらに語るMさんに、同席した私の目頭も熱くなった。その後Mさんの職場では、「この“弁当の日”で日本の食と農を変えていく」と、職員たち による“弁当の日”が始まった。
 「かわいそうな子なんか一人もいない」。“弁当の日”に託された竹下校長の想いを受け継ぎ、今日もどこかで “坂の上の弁当”を目指す人たちがいる。

   ×  ×
 08年「食卓の向こう側に見えるもの」に続き、09年4月からお送りした「天気と食は西から変わる」はいかがでしたか。読んでくださった読者の皆さん、私たちが提案した「ひろがれ“弁当の日”全国ツアー」に真っ先に手を挙げてくださったJA越智今治の皆さん、そしてMさんこと、広報担当の松木愛さんに、厚く御礼申し上げます。この閉塞した社会に風穴を空けるべく、皆で頑張っていきましょう。(九州『弁当の日』応援団、西日本新聞社・佐藤弘)

比良松道一のプロフィール
1965年、福岡県生まれ。農学博士。福岡県農業総合試験場を経て、1993年より九州大学農学部(現大学院農学研究院)へ。農作物の起源解明や品質・品種改良に取り組む研究者として野山や田畑を駆け回ってきた。2006年、“弁当の日”と出会い、教育者、親、消費者としてどう農業に関わるかを真剣に考え始め、以来、各地で講演会やワークショップを積極的に展開している。手先が器用でキャラ弁が得意。その様子は、ブログ「旬のもの by mich.katz」で。


可哀想な子なんて一人もいないのです。
大人たちが子どもたちにそうメッセージを伝えなければ何も良くなっていかないのです。


みんなで“坂の上の弁当”を目指しましょう。